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[怀旧] 40年の時を経て意味が分かった歌詞

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发表于 2021-8-24 21:26 | 显示全部楼层 |阅读模式
40年の時を経て意味が分かった歌詞 とんちんかんちん一休さん




一休的主题曲 又很口语化 又有古语 确实很难解


看到这么一篇论文




前略


1.
 この部分の歌詞は、「わからんちんども/とっちめちん」と2つの文節に区切ることができる。まず最初の「ちん」であるが、これは「おたんちん」の「ちん」と同様、「小僧」「~なやつ」などの意味を添える接尾語で、名詞的な接続をする。このことは、前の「わからん」が「わからぬ」の撥音便で、「わかる」の連体形であることからも明らかである。つまり「わからんちんども」は「物分かりの悪い者ども」ととらえることができ、全体を通しての意味は、「物分かりの悪い者どもは、とっちめてやるぞ。」となる。

2.
 では、「とっちめちん」の「ちん」は何であろうか。すぐ前の「とっちめ」が「とっちめる」の連用形であるので、初めの「ちん」とは性質の違うものであることが分かる。第一に考えられるのは助動詞であるが、口語、文語ともに「ちん」という助動詞は存在しない。

3-1.
 次にあげられるのは動詞である。「ちん」は「ちぬ」の撥音便ともとれる。しかし「ちぬ」という動詞は存在しないので、「ち」と「ぬ」に分かれる場合を考えてみる。歌詞のほかの部分が口語体であるので、当然「ちん」も口語であろうと思われる。「ち」が動詞であるならば「ぬ」は助動詞であり、否定の意を表す「ぬ」の終止形か連体形である可能性がある。この「ぬ」は未然形接続であるので、「ち」は未然形だと言える。未然形がイ段の動詞は上一段活用である。しかし「ち」が動詞ならば語幹はないことになり、口語の上一段活用で語幹のない動詞は「着る」「似る」「干る」「見る」「射る」「居る」の6種のみである。つまり、「ち」は口語ではないということになる。

3-2.
 文語の場合「ぬ」には、否定の助動詞「ず」の連体形と、完了、存続の助動詞「ぬ」の終止形の2つがある。「ず」の場合は口語のときと全く同じであるので、ここでは省略する。完了、存続の「ぬ」は連用形接続である。連用形がイ段の動詞で、考えられるものには、四段、上一、上二、カ変、サ変、ナ変、ラ変があるが、そのうちタ行の活用が認められるのは四段、上二のみである。しかしこの2つには語幹のない動詞はなく、結局、「ち」という動詞は存在しないことになる。

4-1.
 それでは「ち」自体が何かの音便ならばどうであろうか。「とっちめちん」つまり「とっちめちぬ」は複合動詞となるが、ほかの言葉と接続して「ちぬ」と音の変わる動詞には「死ぬ」がある。会話文にしばしば「おっ死(ち)んじまったよ。」という使われ方が登場するが、これなどは「死ぬ」を「ちぬ」と読むよい例である。「とっちめちん」は「とっちめ死ぬ」であり、「物分かりの悪い者どもをとっちめたら、死んでしまった。」という意味になるのである。

4-2.
 こうなると、新たな疑問が浮かびあがってくる。すなわち「死んでしまったのは誰か」という疑問である。死んでしまったのが一休さんであるとしたら、この歌詞の続きである「とんちんかんちん一休さん」とあわせて、「物分かりの悪い者どもをとっちめていたら、脳細胞を使い果たして、とんちんかんな受け答えしかできなくなり、とうとう一休さんは死んでしまった。」と解釈することができる。
 このように考えると、あの無邪気なメロディも、がぜん悲哀を帯びてくるのである。「とんち小僧」と人々からもてはやされていた一休さんも、晩年は惨めであった(知らんけど)。作詞家は子ども向け番組の歌詞の中に、諸行無常の精神を織り込んだのではないだろうか。

4-3.
 また、死んでしまったのが「わからんちんども」であったら、どのようなことが言えるのであろうか。「とっちめ死ぬ」というのだから、「わからんちんども」はとっちめられたことによって死んだのであり、とっちめた一休さんが、直接的にしろ間接的にしろ、彼らの死ぬ原因を作ってしまったことになる。一休さんは、「わからんちんども」を殺してしまったのである。
 このような考え方をすると歌詞はこうなる。「物分かりの悪い者どもをとっちめていたら、とっちめ過ぎて相手が死んでしまった。これじゃあどっちが悪役か分からないね。まったくとんちんかんなことをするよ一休さん。」何事にもやり過ぎはいけないよ。作詞家はこの歌を通して、子どもたちに「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の精神を学ばせようとしたのである。

5.
 それでは、上にあげた2つの説のうち、どちらが正しいかを見てみることにしよう。そのためには、問題の歌詞の部分が、どのような流れで出てくるのかを確認する必要がある。この歌の歌詞を、もう少し前から書き出してみる。

 “あ~あ~南無三だ
  とんちんかんちんとんちんかんちん気にしない
  気にしない気にしない気にしない
  望みは高く果てしなく
  わからんちんどもとっちめちんとんちんかんちん一休さん”

 つまり、「わからんちんどもとっちめちん」ということが、「高く果てしない望み」だと歌っているのである。ならば結論は明らかである。自分自身が「とっちめ死ぬ」ことを、一休さんが望むはずもない。「とっちめ死ぬ」のは「わからんちんども」であり、後者の説が正しいということになる。一休さんはこの世の「わからんちんども」を一掃したいと考えていた。その結果、複数の人間をとっちめ殺してしまったことが、「わからんちん」でなく「わからんちんども」と言っていることから分かる。
 累々と横たわった「わからんちんども」の屍に、さすがの一休さんも「ああ、南無三だ。」とつぶやいた。けれどもここで一休さんは思い直したのである。とっちめることによって相手が死んでしまったとしても、それは「わからんちん」である相手が悪いのだから、気にする必要はない。その気持ちの変化が、続く歌詞「気にしない気にしない気にしない」に表れている。

6-1.
 では、具体的に「わからんちんども」とはどのような人物のことを指すのか、探っていくことにしよう。単純に考えれば、いつも一休さんに難題をふっかける、将軍様、桔梗屋さん、弥生さん、やんちゃ姫、そのほかの大人たちであろう。しかしこれらの人物は、いずれも一休さんが「とっちめて殺したい」と考えるほどの悪人ではない。とすれば、とっちめ殺したい相手は別にいることになる。

6-2.
 一休さんのモデルである一休宗純は 1394年に生まれ、1481年に没している。一休さんの生まれる2年前の 1392年には南北朝の合一があり、1335年の中先代の乱に端を発した南北朝の動乱に、ようやく終止符が打たれる形となった。
 つまり、一休さん自身は南北朝時代を体験してはいないが、一休さんの周りにいる、母上様、和尚様、しんえもんさん(字が分からん)、桔梗屋さん、将軍様などの大人たちは、いずれもこの混乱期を乗りきってきた世代なのである。この時代、世間の様子がどのようであったかを知る手掛かりとして、1334年に掲げられた二条河原落書(らくしゅ)がある。

 “此此(このごろ)都ニハヤル物、夜討強盗謀綸旨(にせりんじ)、召人(めしうど)早馬虚騒動(そらさわぎ)。生頸(なまくび)還俗(げんぞく)自由出家、俄(にわか)大名迷者(まよいもの)、安堵恩賞虚軍(そらいくさ)、本領ハナルゝ訴訟人、文書入レタル細葛(つづら)、追従(ついしょう)讒人(ざんにん)禅律僧、下克上スル成出者(なりでもの)、…”

[通釈]
 このごろ都ではやっているものをあげると、夜討強盗や偽りの綸旨、囚人や早馬が走り、何もないのに騒動が起こる。生首が転がり、僧は俗人に、俗人は勝手に僧になる。急に大名になって宮中でうろうろする者、本領安堵欲しさにありもしない合戦を作り上げる者もある。一方、本領を離れ、証拠文書を入れた細葛をかついだ訴訟人が横行する。おべっかをつかう者、人の悪口を言う者、禅宗や律宗の僧侶や下克上をする成り上がり者が多い。

 一休さんは幼少のころからこういった話を母上様に聞かされてきたはずである。特に、「還俗」(一度出家したものが俗人にかえること)「自由出家」(主人に許可を得ないで出家すること)「禅律僧」(後醍醐天皇の側近にいて権勢をふるい、政務に介入した禅僧や律僧)のくだりから、混乱が仏教界にも押し寄せていたことが分かる。一休さんは禅宗の僧であるので、当然和尚様も禅僧である。いわば身内から不祥事が出たわけで、これは和尚様にとっては由々しき事態であったに違いない。こういったことを繰り返し教えられてきた一休さんの心に、「こういうやつらはとっちめてやるんだ。」という、勧善懲悪の意識が目覚めたとしても不思議はない。
 だが歌にもあるように、「けんかはからっきしだよ三級品」の一休さんには、暴力をもって悪人をとっちめることは不可能であった。それで、持ち前の頭のよさを生かし、とんちでとっちめるというやり方を編み出したのである。つまり「わからんちんども」とは、南北朝時代の悪人や、そのころから受け継がれた、悪い気質、よくない体制などを指すのである。
 アニメのオープニングでは、ちょうど歌がこの歌詞のところに差しかかる時に、一休さんが虹の上を歩いている映像が流れる。これは南北朝時代の悪い習慣などを破ることにより、そしてその時代の「わからんちんども」を「とっちめ」ることにより、世の中が新しく生まれ変わるといった、未来への希望を象徴しているものと思われる。

6-3.
 また、こうも考えられる。1467年には世にいう応仁の乱が起こっており、まさに「わからんちんども」が横行する世の中であったことは、想像に難くない。「あんなに前の時代の悪人をこらしめたのに、今度は自分の時代でこんないくさが起こってしまった。あのときは前途に光が満ちあふれていると思っていたのに。」このような一休さんの悲しみ共感すればこそ、作詞家は、あえて暴力的だと思われようとも、「わからんちんどもとっちめちん」というフレーズを歌に盛り込むことに決めたのである。いってみればこの歌詞は、少年時代の一休さんの前向きな勧善懲悪の姿勢と、75歳の一休さんの無力感、無念さの表れであり、一人の人間の希望と絶望を、対比させたものなのである。
 なお、禅宗に勧善懲悪の概念があるかは、筆者の知るところではない。




pixiv/耳くそより




剩下的就是一些没变换的词



「好き」

「すきすきすきすきすきすき」

「あいしてる」

「頓知(常識をひっくり返す)」

「度胸」

「気にしない」

「望みは高く」

「あわてない」

「休む」

「こころはやさしく」




补完几个


一級品

三級品

南無三




音方面的


日本語は、「あい」「あお」のような母音だけの言葉が多く、言葉の構成が単純なので同音異義語が多発する。





では、「あい」という言葉の中に無数にある「あい(愛、合、相、藍、逢い、哀・・・)」をどういう風にして聞き分けているのか。

わたしたちは、「音響」で意味の違いを聞き分けているのだ。

そこにはノイズと言われる非整数次倍音が重要な役割を果たす。



ノイズのような音響の中にこそ、意味を支える響きがあり、日本語や日本の楽器は大切にしていた歴史的な背景がある。

それは、自然の音や虫や生き物の音を、ノイズとしてではなく意味のある響きとして聞き取ってきた文化でもある。それは風土や歴史と分かちがたいものだ。






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